わかりにくい自己紹介

タイの大学で看護を学び、タイに住み、父母の散骨をメコン川でする。

WeCare代表の古山裕基(こやま ひろき)と申します。

わたしは、タイの東北地方にあるウドンタニ県で暮らしています。

赤がウドンタニ県、緑がコンケン県、黄色がバンコク都

どうしてタイに、しかも日本人が聞いたこともないような場所で暮らすようになったのか? 

そこで何をしているのか?とよく聞かれるのですが、

いつも何と答えたら良いかわかりません。

ある人からは、「あなたはただ、好きなことをやってゆけば良い」と言われたことがありますが、

その通りで好きなこと、やりたいことをただやってきたら、いつの間にか。。。としか言えません。

だから、これから綴ってゆくこの自己紹介文も皆さんにはわかりにくいかも知れません。

1998年ごろからタイを訪れるようになって、旅行ではなく、暮らしたい気持ちがつのりました。

そして、仕事をやめ、何をするのかも決めないまま、タイに行くことになりました。

その時は、まさか、自分がタイの大学で看護を学び、タイ人と結婚し、父母の散骨をメコン川ですることになるなんて思いも寄りませんでした。

ひとり孤児院に置き去りにされる

タイに来た最初は、きまった滞在先も見つからず、何をしたいのかもわかりませんでした。

たまたま、コンケン県にある教師が、運営する孤児院を訪問するツアーに参加することになりました。

同行していた通訳の方が「何もせずにこういうところで1年いたら、いろいろなことがわかるよ。ここに置いてもらうように先生に頼んであげようか?」と言われました。

タイに滞在する青年海外協力隊員でもある彼女が言うには、

「協力隊員は滞在期間が2年と決まっている。現地のことがあまりわからないまま、何かをしないといけない。。。だからとりあえず何もしないままでここで1年いたら!」と言われました。

ということで、このツアーから僕ひとり置き去りにされて、この孤児院で暮すことになりました。

水道も電気もないこの場所で、子どもたちは、家を建て、家畜を飼い、水田で稲を刈り、畑で野菜を育て、魚を取り、森から食べ物を取ってくる等の生きる技を持っていました。

いっぽうで、僕は稲を刈る代わりに、自分の指を刈ってしまったり、水田で魚を取ろうとして、泥に足をとられ、腰まで沈んでしまい、子どもたちに引き揚げてもらったり、、、、、。

1年が過ぎ、わかったことは、自分は役に立つ技術を持ってないという事だけでした。

そんな中、自分は両親がエイズで亡くなった子どもといろいろと話をし、興味を持ちました。

ちょうどその時、

ある知人が、看護師になる事を勧め、僕も看護師なら彼らの助けになるし、

どこでも食べて行けると思ったのです、、、、、。

外国人の君の出番はない

看護学部の男子の新入生。前列右から2番目、カバンを抱えているのが自分。。。周りは全て18、19歳、自分だけ28歳。。。

わたしは、孤児院にいながら看護学校の入試に向けて勉強を始めました。

当初は、日本に帰国して、看護系の大学や専門学校に入学するつもりでしたが、孤児院の先生が地元のコンケン大学に応募したらどうか?と勧めてくれました。

普通は入学試験があるのですが、わたしの場合は高校時代の成績チェックそして面接でした。

そして

まさかの合格。。。

びっくりしました。。。ちなみに高校時代は、生物3点(もちろん100点満点で)、化学や数学は選択していませんでした。タイの名門大学であるコンケン大学がなぜ、僕を採ってくれたのか。。。。

入学式の日に学部長先生に呼ばれ、「君のような外国人が一人いると大人の生徒の刺激になるので、入学してもらった。でも、君のタイ語能力なら、卒業まで8年かかるかも知れない。」と言われ、ゾッとしました。。。

もっと早めに言ってくれたら、、、と後悔しました。

案の定、成績は最悪、再試の繰り返しでした。

わからないだらけの、砂を噛むような時を過ごしていました。

ある先生になぜタイの看護学部に入学したのかを聞かれ、エイズ孤児の話をしたところ、

「エイズのことはタイ人自身でやれるから、外国人の君の出番はない」と言われる始末。。。

何とか4年で卒業したのですが、今の経歴・能力では、外国人に求められるエイズに関わる仕事はありません。

途方に暮れていました。

タイ人と結婚までしてしまった僕は、なんとか国際病院での通訳の仕事にありつきました。

しかし、自分がやりたいことは、これなのだろうか?と違和感が募るばかり。

そんなある日、青年海外協力隊の募集があり、エイズ関係の職種の応募が出ており、迷わず応募し、合格。

通訳の仕事を辞め、妻をタイに置いたまま南米ベネズエラに派遣になりました。

ベネズエラの2年間は、いろいろとあったはずなのですが、ココでの印象はあまり残っていません。

ただ言えるのは、胸を張って、何かができた!ということは一つもなかったことです。

むしろ行く前にある人(アメリカ人なのに、日本語が堪能の農業専門家で日本の農務省からタイに派遣された)に、「(仕事をする国を変えることは大変なので)君はやはりタイになんとか残った方が良いよ。」と言われたことが印象が残っています。

看護にはもう興味がない

協力隊のあとは、再びタイに戻ってコンケン大学の看護学部の修士課程に入学しました。

安易な気持ちで、”とりあえず”修士を取ろうと。

しかし、じつはその時には、もうエイズにも、看護そのものにも興味がなくなっていたのです。

なぜなら、学部生の時にある先生から言われた「外国人の君に出番はない」と言われたことだけでなく、

病を抱えた人を看護の視点だけで援助してゆくのに、自分は興味がないと言うことでした。

こういうことがありました。

受刑者でもある患者さんは喘息が悪化したために入退院を繰り返していました。

借金を返すために高収入を得れる麻薬の売人になり、逮捕されたと言います。

以前は、バスの車掌をしていたそうですが、収入が低かったとのこと。

それを聞いた自分は、看護より、収入などを増やすための支援をどうしても考えてしまいます。

そんな感じなので、授業を受けても、面白くなく、しかも修士論文提出期限が迫ります。

要は自分の”とりあえず”修士に進んだのが間違いだったんです。

とはいえ辞める勇気もなく、中途半端な気持ちのまま、時間だけが過ぎてゆきます。

しかも、ゆっくりと考える暇がないほど、日々の課題に追われていました。

母の「介護」のために帰国

ちょうど、その時に日本にいる父が亡くなりました。

急遽、私は日本に帰ることになりました。

父は2回タイに来てくれ、1回目は私の結婚式、2回目は亡くなる前の年で、糖尿を患い透析がいつ始まってもおかしくない状態の父にとっては、結果として最後の訪タイになりました。

透析を受けながらでも、タイに移住したいという父に、母は反対していました。

  死後に、父が旅行会社に頼んでいたタイで透析ができる病院のリストが届きました。

それを見た母は、父が本気でタイ移住を考えていた事を知り、大変残念がっていました。

そんな父の思いを叶えるために私は、父の骨を生前に父と訪れたメコン川に散骨しました。

母はとても喜んでいました。

一方で、これから日本で一人暮らしになる母に、タイで一緒に住まないかと、僕は誘います。

しかし、母は無理だと言います。

むしろ、僕には、早くタイに帰った方が良いとも言います。

しかし、自分は日本に残って、母との同居を選びました。母を「介護」するために。

母と(プラス、ダックスフンド一匹)の暮らしが始まりました。

また、コンケン大学で知り合った友人が紹介してくれた介護施設で働くことになりました。

様々な国籍の人がいる介護施設で働く

友人が私にその介護施設を紹介した理由は、職員も利用者もいろいろな国籍の人がいる施設だから、タイで看護を学んだ自分に向いているのではないか?ということだった。

ここでは日本語がメイン、でも日本人は少数グループでした。オープンしたばかりのこのグループホームは毎日がカオスでした。

「利用者さま」という言葉を他の施設で聞いていた僕は、ここでは「〇〇さん」というよりは、「アンタ」「おまえ」などと言います。なぜかと言うと、この地域は震災前までは小さな長屋や、町工場、商店街が並ぶ地域で、家の前で人々が話をするような下町でした。しかし、震災後は高層住宅に建て替えられ、かつての住民はみんな家に閉じこもるようになってしまいました。

職員も高齢者も思ったことを遠慮せずに言います。それで”言い争い”になることが多かったです。

でも、言いたいことを、言わずに我慢するより良いことだと気づいたのは随分後になってからでした。

それは、外国人、高齢者、痴呆症、性差、学歴、シングルマザーなどのために、ここにいる多くの人が言いたいことが言えない人たちだったから。

しかし、”言い争い”になっても、次の日は普通に過ごしているのが驚きでした。リーダーシップによって上位からの指示で物事が決まるのではなく、遠慮のない”言い争い”によって、妥協点に落ち着いてゆきます。

そして、高齢者と職員の間、職員の間、高齢者の間が、付かず離れずで、イヤな人とも一緒に居る、微妙な距離感があるのです。

「どうせ死ぬのに、生きてるのは何でやろうか?」

同時に自分は、大学院に入り直し、看護学から文化人類学という学問に鞍替えすることになりました。文化人類学とは”人が関わる全ての事象を分析する”というわかりづらい学問で、おそらく世界的に死にかけている学問で、就職でもアピールできないため不人気だそうです。

しかし、

自分はこの介護施設の”言い争い”と”嫌な人とも一緒に居れる”ことを研究する方法だと思いました。

この施設は、これからますます異なった人々が一緒に暮らすようになる日本の一つのモデル?かもしれません。

かといって、そこに理想の介護があるのかはわかりません。

あるおじいさんは、「〇〇にあるきんつばが美味い!今度、おごったる」と言いますが、その店に自由に行くことはもうできない。

そんな彼が、真夜中ソファーで「どうせ死ぬのに、生きてるのは何でやろか?」と言った時、

自分は、同じような状況にある同居している母のことを考えることはありませんんでした。

他人の介護と、親の介護はちがう」

母とは介護のことでよく言い争いになりました。近所の人が心配するほどでした。老いてゆく「母のため」と思ってわたしがやる事を、母は認めない。例えば、私が干した洗濯物を、あとから母が干し直したり、私が夜勤の時は母のために作った弁当を食べてくれなかったり、、、、。

専業主婦だった母にとって、家事を他人、しかも息子にしてもらうことには、どんな気持ちだったのか?

残念ながらその時は考える余裕はありませんでした。

わたしは、母を責めました。

曲がった腰で押し車や杖だけに頼りながら買い物に行く母。

「危ない、何かあったらどうするねん!」と言う僕。

きんつばのおじいさんには自由にどこかに行けたらと思っていたのに。

思い通りにいかない僕は、腹いせに戸棚を蹴ってしまいました。今でもその棚には蹴り跡が残っています。

腹いせに棚を蹴った時の跡

肉親と他人の介護は違う。。。。

そんな母が除夜の鐘が打ち終わった時に、突然風呂場で倒れ、亡くなりました。

生まれ変わる

母の葬式の後、修士論文を書き上げながらの数ヶ月間、僕は母や介護施設での出来事を思い出していました。

そこで、誰のための介護? 誰のための葬儀? 突き詰めると「どうせ死ぬのに、何で生きるのか?」などの死生観への疑問が初めて湧き出てきました。

葬儀では、初めて会うお坊さまにお経を読んでもらったのですが、母の事をまったく知らないので、一般論だけを話す彼の説法は心には響かず、葬儀会社のプラン通りの儀式のために自分で弔った感覚はありませんでした。

その時に、思い出したのが、タイでの看護学生の時に経験した。看取りの場面でした。

それは、こんな場面です。

患者さんがまさに息を引き取った患者さん、その時、「トッケー、トッケー、トッケー、トッケー、トッケー」というヤモリの鳴き声が聞こえてきたのです。

その時に、家族さんが「ああ、おじいちゃんは死んでトッケーに生まれ変わったわ」と真顔で話したのです。『生まれ変わる』という言葉は新鮮でしたが、何となく懐かしい感じがしました。

トッケーと鳴くのでトッケーと呼ばれている。大きいのは30センチにもなる。顔は怖いが、虫を食べてくれる。

というのも、タイ人の妻の亡くなったお母さんの荼毘のことを思い出したのです。

妻がペンでお母さんの足の裏に印をつけたのです。

妻が説明するには、もし自分たち親族の中で生まれた赤ちゃんの足の裏にアザがあれば、お母さんの生まれ変わりとのこと。

タイ人の多くが仏教の輪廻転生を信じています。

彼らが「死」についてよく話すのは、”古い服を新しい服に替えるようなものだ”という事です。

その明確な死生観は、生活に染み込んでいます。

それは幼い時から、同居する祖父母が亡くなるのを実際に見てきたことに関係があるかもしれません。

生を手放す

わたしが体験したタイでの看取りでは、家族さんの悲しみの中に、穏やかな雰囲気も漂っていました。

当時、僕は看護学生なので、先生や先輩看護師について看取りを経験させてもらえたのですが、普段は医療関係者は立ち会わずに自宅で息を引き取ることが多いです。

入院していた僕の義母の担当は、20代後半の医師でした。

彼から「そろそろ家に帰りましょうか」と言われたのがとても印象に残っています。

義母は、帰宅してから2ヶ月後に亡くなりました。

やはり、悲しいけど、穏やかに迎えた死でした。

日本ではこのような言葉を医療者から聞くことはあるでしょうか?

タイでは、医師をはじめとする医療者側もやはり上に挙げたような死生観を患者さんやその家族と共有しているのかも知れません、それも幼い時から。

だから、どこの段階で「生を手放す」かという基準を、家族と医療者がともに共有しやすいのではないのでしょうか?

わたしが日本の介護施設に勤めていた時、

「死は怖い。真っ暗な、何もない世界にたった一人で取り残される」という話を涙でクシャクシャにした顔で高齢者から聞いたことがあります。

恐怖のみで、そこには穏やかな雰囲気はありません。

このような死に対する幾つかの疑問は、自分の母の死を経験したことで、ますます大きくなりました。

母をメコン川に散骨する

疑問点の一つが、なぜ、自分で母を弔った感覚がないのかです。

わたしは、父と同様に母もメコン川に散骨しようと思いました。

理由は、自分の手を使って弔いたいと思ったことです。

妻とその家族のアドバイスで、わたしの父、義母の散骨ともにメコン川でしたので、母の時も簡単でした。

船を雇い、お坊さんを船に乗せて、家族とともに川のある地点まで行きます。

ある地点とは、メコン川に水没した仏塔の先端がある場所です。

そこに舟をつけて、お経を唱えてもらいながら、お骨と花びらを流してゆきます。

メコン川はチベット高原を源流にして、ミャンマー、ラオス、タイ、ベトナム、カンボジアを通り、南シナ海に流れてゆきます。

ゆっくりと沈んでゆくお骨と対照的に、花びらは川面に浮かんでいます。

それらは、いずれ海に流れてゆくのです。

それを見ていると、死んだ父母や義母と、生きている自分の繋がりを感じました。

逝き方から生き方を創る

母を散骨した事で、スッキリとしました。そして、自分なりの死生観を考えるようになりました。

それは、本、他人の教えにあるだけでなく、今の自分には「古い服から、新しい服にかえる」ような明確なものではなく、今のところ、はっきりと答えることはできません。

ただ、

自分なりに考える事、そして逝きかたを考えることは今ある、生き方を考えることにあるのではないか?

自分は、母の言葉「早く、タイに戻れ」という言葉を思い出します。

自分の場所は、タイにあるのかもしれません。タイで生きることは、タイで逝くという事ではないかと。

今でも、正直なところ、この考えに迷う事もあります、現実の世界に押し流されてしまう事もあります。

例えば、勤めていたNGOを1年間で辞めました。安易に定収入が得られる道に流されてしまいました。仕事一本で、逝きかたから、生き方を考えるなんてことができないほどでした。せっかくの給料もストレス発散に使い、体も心も壊れてしまいました。誰も何も助けてくれません。

生き方は、自分が中心になって何とかしないといけないのです。

辞めた日を境にこのHPを創ることを始めました。実は過去に作った事もあったのですが、そのまま更新せず、消滅すてしまいました。幸い、良いアドバイスをくれる人も見つかり、彼らとともに、HPを作ってゆきます。

よろしくお願いします。

古山 裕基

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