「産まれること、逝くこと」
わたし(古山)が、タイの「みとり」の現場で感じたこと。
「わたしが産まれたこの部屋で、母が最期を迎えようとしています。。。」
自己紹介で、紹介させて頂いたように「生まれ変わる」という輪廻転生にも慣れ、その言葉を聞いた時の新鮮さを忘れかけたときに、冒頭の言葉を聞きました。
「産まれること、逝くこと」が同じ部屋だということに、私は驚きました。
決して、ゆたかでもないこの家の、この天井を見ながら、この人は命を送り出し、そして、今度はどこかに帰って行こうとしている。
陽が沈む光が、開かれた扉から差し込む。
孫たちがヨチヨチ歩く、犬と猫がトコトコ歩く。
もち米を炊く香り、おかずの湯気。
蛍光灯が音を立てながら灯りだす。
タイでは、数十年前までは、家でお産していたと言います。冒頭の言葉の娘さんは50代でしょうか。お母さんは70代後半です。今では、日本と同様に病院で産まれるのがほとんどです。
逝くことだけでなく、産まれることに関心を持ったのはこの時からです。どちらかだけでは、死生観を持血辛いのかもしれません。
人が産まれたり、逝くことが人々の目から離れてゆく。
これは、日本やタイもおなじ事なのかもしれません。
自分は、タイの大学で看護を学んだのですが、助産も学びました。
12人の赤ちゃんを取り上げさせていただきました。
あの時の感情は今は、もう忘れたのですが、赤ちゃんのにおいは今でも覚えています。赤ちゃんを最初に抱いたのは、お母さんではなく、僕だったんです。
そんなことを思い出しながら、「逝くことと、産まれること」を皆さんに発信していけたらとお思います。