メコン川で、わたしは父母そして、妻の母の散骨をしました。
一般に、タイでは、日本のように一家が代々同じ墓に入るようなことはないようです。
お寺に行くとお墓があります。日本のようなお墓ではなく仏塔のような感じで、名前と場合によっては写真プレートが貼ってあります。
また、お寺の塀の柱などに、お骨を納めることもあるようです。
一方で、海や川に散骨する人もいます。
わたしの父母、タイ人の妻のお母さんも散骨にしました。
妻の母は、「お墓は管理するのが大変だから、メコン川に散骨が良い」と言っていました。いっぽうで、妻の祖母は、お墓に納めました。娘(つまり妻の母)と同じようにメコン川に散骨しようかと生前に聞いたのですが、「泳げないから、嫌だ」とのことでした。
生前に、本人が埋葬について話すのは、おもしろいです。
なぜわたしが、父母の散骨を選んだかというと、わたしの結婚式のためにタイに来た父は、タイがとても気に入っていたようです。それ以来、タイ移住希望でしたが、透析通院の必要があったために、夢はたせず。それを聞いた母は、父の最期の願いを叶えてあげようと言ってくれました。
ちなみに、母が亡くなった時は、兄たちや親族と話をして、父のそばにいたほうが良いとのことで、散骨にしました。
わたしが暮らすウドンタニからメコン川までは車で1時間もかからず、すぐに行けます。
川を眺めながら、ご飯を食べ、お花や線香をあげます。
日本人のある高齢の方から、”散骨なんてする家はいい加減な家だ”と言われたことがあるのですが、日本ではお墓に悪い意味で縛られているようですが、、。
残された遺族、そして本人の希望が重要で、もっと自由であるべきだと思います。
お墓を含めて、いまの弔いは、供養というより商売の側面が多すぎはしないかと、思うのです。
ただ、よく考えると川に散骨というのも、墓石の代わりに川がお墓のようなものなんだとも思えます。
ただ異なるのが、
わたしや妻の家族が亡くなったら、父母や義母のことを覚えている人はいなくなります。でも、お墓は残るから名前がわかりますよね。覚えている人がいなくなる、、寂しい?、でも自分はそれで良いと思っています。
自分が生きている限りは、思い出し、お祈りをするのが供養だと思っています。
メコン川に水没した仏塔のそばで散骨。